美作女子大学・美作女子大学短期大学部紀要
1999, Vol.44,110〜115
| 報告・資料 |
はじめに
私は7年ほど前に劇作家・額田六福(勝田郡勝央町出身)の伝記を書いた。1)その時,取材にあたって驚いたことは,当時60才位以上の人が農村歌舞伎(いわゆる素人による村芝居のことで当地方では“地芸”とか“地下芝居”と呼ばれる)について語るとき,一様に興奮し,何か楽しい思い出を語るように,生き生きと手振り,身振りで語りだすことであった。
−農村歌舞伎は江戸時代の中ごろから発生し,特に明治の初めから昭和の中ごろまで活況を呈した。中でも作州はさかんで,特に東作州(英田・勝田郡)では「歌舞伎について,うかつにものが言えない」というほど専門的に歌舞伎が定着している。明治20年ごろ役者として活躍した額田房治郎は,女形が得意で,芝居が終わり舞台から家に帰るまでに,地元の娘たちから人気袖を引かれ,着ている着物の袖が破れてしまったというほどで,当時の人々がいかに芝居に熱中していたかがうかがえる。額田六福も青年時代に浄瑠璃を学んでいたが,作家としての素地が,このような環境から生れたのであろう2)− 因に房治郎は六福の義叔父である。
六福も戦時下に書いた自著『忠霊塔』のはしがきに「中学を卆ってから大学へ移る前の数年間を,故あって農村青年諸君と共に過した経験のある私に,今30年前の懐かしい記憶をまざまざと喚び起こし,近来にない異常な感激と興奮の裡に本書を編むことに成功したことを喜ぶ。私はその頃の青年団の芝居のために“二宮金次郎”だの“近江聖人”だのという脚本を書いた。今でも農村に住みつづけていたら,諸君のために已然農村劇の脚本を書きつづけていることであろう」と記している3)。
私は額田六福伝を書き終わって,作州における農村歌舞伎は,一時期,我々の想像以上に,民衆の生活の中にとけ込み,当時の作州文化に影響を与えたのではなかろうか。一度しっかりと取り組んでみる必要があると考えるようになった。
1.作州の農村歌舞伎
作州の農村歌舞伎については,二宮朔山著『美作の歌舞伎芝居』に全貌が要領よくまとめられているので,それをベースに,新しい資料などで補足しながら進めていく。
−この地方では文化・文政(1804〜1829)のころから歌舞伎芝居が盛んに行われだしたようである。特に津山から東部の地域では,歌舞伎専用の舞台が,各村々に存在した(門口6間,奥行3間半)。氏神様の境内の中に,神楽殿を兼ねた舞台が建てられた。今も七十数個所の跡を見ることができる(1976年の調査時点)。津山市田熊(旧勝田郡広野村)の八幡神社の舞台はりっぱな回り舞台で,1975年に国の重要有形民俗文化財に指定された4)。勝田郡奈義町中島東の松神神社の舞台も1963年に県重要民俗資料の文化財に指定されている5)−
これらはいわゆる半小屋と呼ばれるもので,太夫座・舞台裏・物置などを含む舞台の部分だけで,観客席はなく,客は地べたに蓆などを敷いてみる6)。
昭和20〜30年頃までは,作州のほとんどの人が地下芝居を体験しているといっても過言ではあるまい。田んぼの稲刈りが終わると,田んぼに掛小屋を作り,蓆一枚分を一坪として,図面を作り,青年団が見物席を売ってまわった。若者になれば,誰もが一応芝居をやらなければ一人前の交際はできなかった。芝居でいい役をやると良い縁談がまとまるというのだから,青年たちも張り切った。芝居の稽古は一ヶ月くらい前から,専門の振付師(多くは旅役者)を頼んで始める。振付師はその間,部落の家に泊まり込み,本番までの食べることなど一切を部落でみた。子供たちは学校が終わると,くっついて見ているので,芝居のセリフなど小さい時から覚えてしまっている。いよいよ当日になれば,若い娘や嫁たちは,着飾って見物し,ご馳走を重箱に入れて持ち込み,男たちは近所の人たちと酒をくみかわしながら観覧し,セリフを間違えたりすると“大根役者”とヤジをとばし,上手にミエを切ったりすると拍手喝采する。自分の息子や近所の誰かれが出演するのだから,力の入れようが違う。観客は“ハナ”と呼ばれるお祝儀を,役者または勧進元の青年団などに出し,壁や花道にデカデカと貼出される。幕合いには,それが長々と披露される。そしていつしか「メシより芝居の方が好き」な芝居キチが誕生していくのである。
私は昭和20〜30年代は小学生から中学生であるが,ほとんど地下芝居の記憶がない。生れ在所の勝央町勝間田は,元は出雲街道の宿場町で,勝田郡の中心地であった。町には「太平座」という観客席のある劇場様式の大きな芝居小屋があったが(現在も建物は残っているが内部を改装して商店になっている),買い芝居と呼ばれるドサ回りの旅役者の芝居を何度か見たが,そのうち映画に変っていった。同年で勝北町の友人は,「私らはおおきゅうなったら青年団に入って,芝居をせにゃいけんもんじゃと思うとった。それに何の疑問も持たなかった」という。
勝央町もかなりさかんだったようで,「勝央町の地芸」7)に「明治中葉から昭和初期にかけ,その全盛を見るに至った」と記されている。町の商店街にあった「山手屋」は,大きな呉服屋であったが,歌舞伎の貸衣装屋でもあった。要するところ,勝間田は文化が伝わるのも早いが,次々と新しい文化が入ってくるので,新陳代謝が早かったのではなかろうか。
私の母の生家は津山市堂尾(旧勝田郡高取村)で,ここも村芝居がさかんであった。今から思うと,祖母の寝物語り「安達ヶ原の鬼ババァ」や「巡礼おつる」などは,地下芝居の芸題である。そうすると,私も間接的には地下芝居の体験者といえるかも知れない。
津山市福井(旧勝田郡広野村)在住の安藤正朔氏は,元教員で,現在94才の高齢であるが,バイクを乗りまわし,記憶力も抜群で,祖父の死亡年月日と戒名がその場でスラスラ言えるほどである。この人の話によると,昔は各部落に一つは舞台があり,常設の舞台のない所は組立式のをもっていた。氏の祖父・安藤亀平氏(安政の生れ,大正6年62才で死去)は,芸名を竹本亀楽といって,農業のかたわら浄瑠璃を習った。「浄瑠璃の会」でも前語りをつとめたという。その息子で正朔氏の叔父にあたる安藤慶一氏(明治11年〜昭和10年)は,大阪で事業を営むかたわら,本場で浄瑠璃を習った。事業で失敗して生家に戻った後は,近所の人に浄瑠璃を教え,他村にまで教えに行ったという。芸名を「藤枝」といい,「一谷嫩軍記」「玉藻前」など,藤枝写と署名された浄瑠璃の写本が安藤家に沢山残っている。木版刷のものも合わせるとかなりな数であった。
しかしこの2人は浄瑠璃だけで,地芸はしていないとのこと。正朔氏の話では,その頃はこの辺では地芸をしていなかった。地芸はもう少し後で,安藤家の元本家の安藤六衛氏(大正7年生れ81才)とか,近藤敦美氏(昭和初期の生れ)などは地芸をやって,奈義町の滝本から高森さん8)が指導に来られ,三味線は中尾(現英田郡美作町)から久安さんという人が教えに来ていたとのこと。専門の旅芝居は,播州から北条芝居9)がよく来ていたという。安藤氏の話は次から次へと際限なく続く。なぜ祖父・叔父の代では地芸がなく,次の世代で復活しているのか。江戸時代から度々禁止令が出され,取締りが厳しく,盛衰の波がある。明治以降は戦争の影響もあろう。何故それほど禁止せねばならなかったか,資料的裏付を取りながら調査する必要を痛感したが,本稿では安藤氏の記憶をそのまま記するにとどめ,次回の課題としたい。
2.歌舞伎の発生と農村歌舞伎
歌舞伎の発生についてはいろいろな説があるが,『美作の歌舞伎芝居』によると
−歌舞伎は慶長8年(1603)出雲大社の巫女である阿国が,京都四条河原で,念仏踊りを始めたのが最初の女性歌舞伎である。「かぶき」は当時異様なかっこうして,気どったタイプの人々をカブキ者と呼んだ。それに「歌」「舞」「技」の三字をあてはめて,この三つが総合一体化されて演劇を構成するようになった。また「浄瑠璃」は三味線に合わせて謡う物語で,永禄年間(1558〜1569),小野阿通が,義経と浄瑠璃姫の恋愛を脚色して「浄瑠璃十二段」を作ってから「浄瑠璃」という固有名詞が生まれた。それに加えて寛永年間(1624〜1643)に義太夫節などが生れ,歌舞伎の発展に大きく影響した。
阿国の出現は,同僚たち一座を組織して,自ら座頭として,出雲から美作を経て京へのぼったのは,戦国時代末期であった。この一座が京の賀茂河原で小屋掛けをすると,たちまち民衆の人気を集めたといわれ,踊りそのものは,若い女のセクシーな裸の乱舞に近いものであったという。このあられもない姿態に,名古屋山三郎という者が,阿国の奉納舞に対し,要領よく所作を振り付け,華美な衣裳を考案してやったので,これが図に当たり,歌舞伎の名は京洛ばかりか,全国に喧伝され,「念仏踊り」「花笠踊り」「やや踊り」と言われ,戦国の武将たちに大いに受けた。
戦国のすさんだ気分から泰平の世になり,名声はいよいよ高く,男のまねをして,お色気を表現したりするので,風俗取締りのため,寛永6年(1629)女性の舞台公演を禁止した10)。わずか20年間の女性活躍時代で,以後,明治24年まで女優不在が続いた。その後「若衆歌舞伎」から「野郎歌舞伎」になり,江戸の市川団十郎,大坂の坂田籐十郎らの名優が生れ,脚本の近松門左衛門や,それを物語るのに,三味線(常盤津,清元)を加えた竹本義太夫も生れた。舞台構成の発達と共に,はなやかな文化・文政を迎え,歌舞伎が大成されてきた。とくに内容については幕府の取締りも厳しく,登場人物も変名をつかうように努力している。明治以後は,新派や新劇に圧倒されながらも,坪内逍遥らによって,近代歌舞伎の姿をととのえた。第二次大戦後は仇討や残酷物は,連合軍によって禁止となったが,2年後には「忠臣蔵」の公演が許可された。近年海外公演によって,歌舞伎芸能を世界に広く紹介されるようになった11)−
京・大坂・江戸の三都を中心に発達した歌舞伎(人形浄瑠璃も含む)は,やがて買芝居と呼ばれるドサ回りの旅役者によって,全国津々浦々に伝えられた。
このような農村を生活の基盤として職業化した歌舞伎の座本が集落をなす役者村を成立させた。文献で知られる役者村は,北原(現大分県)・川棚(現山口県)・高室(現兵庫県)などである12)。旅役者が地方に住みついて,土地の指導者になったり,逆に村芝居の素人役者が上手になって,旅芝居に引き抜かれてプロになる場合もあった。
3.全国的視野から見た作州の地下芝居
1998年3月15日,英田郡作東町粟井「春日座」に於て「東作州農村歌舞伎大寄せ」が開催された。主催は東作州伝統郷土芸能農村歌舞伎実行委員会(会長・奈義町長中井孝夫)で,6つの保存会(作東町粟井春日歌舞伎保存会,奈義町横仙歌舞伎保存会,勝田町歌舞伎保存会,勝央町農村歌舞伎保存会,大原町壬生農村歌舞伎保存会,美作町地下芝居保存会)が参加している。横仙歌舞伎保存会が中心的な役割をはたしている。美作町は役者が高齢化のためとかで,当日の参加はなかった。当日の芸題は
1「寿式三番叟」
県立日本原高校伝統芸能部
(指導・横仙歌舞伎保存会)
2「伊達娘恋の緋鹿子・櫓のお七」
勝央町農村歌舞伎保存会
3「絵本太功記十段目・尼崎の段」
横仙歌舞伎保存会・子ども歌舞伎教室生
4「忠臣蔵三段目・刃傷」
大原町壬生農村歌舞伎保存会
5「義経千本桜道行之段」 勝田町歌舞伎保存会
6「絵本太功記十段目・尼崎の段」
作東町粟井春日歌舞伎保存会
私は当日所用のため少し遅れて行ったので,五番目の「義経千本桜」が始まっていた。すでに満席となって立っている人もいる中を,こそこそと入って行った。1992年に新しく建て替えられた春日座は,客席をもつ劇場様式の小屋で延面積400m2,収容能力300人,回り舞台,太夫座,花道をもち,客席のまん中に一本の道路があって,両側に村人たちが,座布団を敷いて,毛布などを持ち込んで,隣どおし酒をくみかわしながら,にぎやかに観覧していた。
セリフは大体覚えているようで,義太夫に合わせて口ずさんでいる人もいた。そしてセリフを間違えるとたちまちヤジがとぶ。うまくミエを切ると拍手喝采。“ハナ”も次々と貼り出され,“おひねり”13)も投げられる。作東町の山奥に,今なお,昔ながらの地下芝居が実際に行われているのに驚く。古くはここは城下町で,小字を市場といって,賑わったところだそうである。
少しなれてくると,私の前にこの場に不釣りあいな都会的な雰囲気の男の人と女の人がいた。後できくと農村歌舞伎の権威者・景山正隆氏と,全日本郷土芸能協会事務局長・城井智子氏であった。景山氏は,全国地芝居連絡協議会議長,社団法人義太夫協会会長,文化財保護審議会第四専門調査会長,元東洋大学文学部教授で文学博士とかで,農村歌舞伎の調査や普及に全国を駆けまわっておられるという。横仙歌舞伎保存会の知人Tさんから紹介された。私は前々から作州の地下芝居(因に景山氏の話によると全国的には“地芝居”とよぶところが多いとのこと)を,全国的な視野から見たいと思っていたので,その日,Tさんと春日歌舞伎保存会のAさんと一緒にホテルまでご一緒させてもらって,有意義な話を聞くことができた。
景山氏は,「農村歌舞伎はほとんど全国津々浦々にゆきわたり,芝居と全く縁のなかった土地を探す方がむずかしいくらいだろう。文部省の調査で昭和45年現在,37都府県にわたり,現存廃絶を確認した舞台の総数は1777棟で,明治の初期には2000〜3000棟はあっただろう。これに組立式,仮設を加えるなら厖大なものになるだろう。その分布状況をみると,確認されたもので北から福島県南部,群馬県,神奈川県,静岡県,愛知県,兵庫県,岡山県,香川県小豆島,徳島県,高知県,熊本県などで,粗密の差はあるが,特に天領だったところがさかんである。東作州はこの狭い地域に6つもの保存会が残っているということは相当さかんな方です。昭和30年代に全国的に衰退し,40年頃から復活しはじめ,現在では,全国で130余の保存会ができている。伝統のある土地では子供歌舞伎を見てもわかります。
歴史的にみると,地芝居の最初の記録は岐阜県益田郡萩原町の久津八幡宮の祭礼記録のうち,宝永3年(1706),正徳5年(1715)が最初のものであるが,それ以前にも村芝居禁止の触れが,「五人組帳」とか庄屋の記録に残っていることからみて,発生は元禄(1688)以前にさかのぼるだろう。そして文化文政には全国的に広まる。その後度々禁止令が出され,それが強化されたり,ゆるんだり,経済的な事情もあって,盛衰の波はあるが,明治の初めから昭和20年頃まで,全盛期を迎え,農村の唯一の娯楽であった。
農民が村芝居を楽しむには,ある程度,経済的余裕がなければならなかったでしょう。また多勢の老若男女が集まることは,風紀と治安の上からも好ましからぬことで,度々禁止令が出されるが,それをかいくぐって現在に至っているのです」と,語った。よどみのない語り口と情熱に引きずられ,次の日も朝早くホテルを訪れ,汽車に乗られるまで,聞くことができたことは,幸いであった。
景山氏には『愛すべき小屋』という四六版600余頁に及ぶ大作がある。私はこの時まで,この著作の存在を知らなかった。すでに絶版となっていたが,何とか入取して,一息に読んだ。そして改めて作州の地下芝居を見ると,保存会の残っている所は,みな天領であった。森藩断絶のあと,英田郡・勝田郡はその後入封して来た松平藩の統治下に入らず,様々な支配を受けながらも,大体は天領であった。「天領は五公五民 藩地は六公四民」といわれ,天領民は藩地より年貢その他各種の運上は少なかった14)。
私見ではあるが,天領は代官とか郡代によって統治されるか,どこかの藩預りということになろう。代官や郡代は江戸から少人数の家来を連れてくるが,実務は土着の役人が行い,軍備はもたない。しかも何年かで交替となる。したがって領地をくまなく管理の目を届かせることはできなかったであろう。他藩預りともなれば尚のことである。また江戸から直接役人が来れば,江戸の文化もまた直接入ってくるというものである。そのような様々な要素が加わって,天領において歌舞伎が他よりも発達したともいえよう。
1998年10月9・10日,私は再び作東町の春日座へ芝居見物に行った。今度は春日歌舞伎保存会だけの公演である。私が最も楽しみにしていたのは,粟井小学校6年生男女12名全員による「寿曽我対面」であった。始まる前から,両親,祖父母,きょうだいなどが,カメラを持ったり,座布団や毛布を持ち込んで,大変な熱気である。いよいよ幕が開くと,担任の先生らしき人が,裃を着て,口上を述べる。続いて,子供たちが,化粧してもらい,念入りに隈取りしてもらっている子もいる。花魁に扮した2人の女の子は外八文字もうまく歩けない。芝居が始まって,「このお杯どなたに回しやんしょ」などと黄色い声をあげる。子供はどんな仕草もかわいい。小さな男の子がもたもたしながらもパッと早変りなどすると,拍手喝采,“おひねり”がパラパラと投げられる。ところが花魁に扮した1人の女の子が,慣れぬ着物で体をしめつけられたためか,気分が悪くなって,倒れだした。黒子と担任の先生が両わきから支え,やっと幕が下りたが,そのとたんワーッと泣き出してしまった。舞台も客席もハラハラしどおしだった。この時点で,舞台と観客は完全に一体となっていた。プロなら絶対に許されないことであるが,子供だとかえって初々しくかわいらしいのである。「子供は生まれながらの役者である。」とつくづく思った。
後で,保存会のAさんに聞いたところ,この2日間の観客は延500名,ハナは400件,総額137万円という。単純に計算してみても,1人平均3000円,2日間来れば6000円払ったことになる。夫婦,家族で来たものも多いから,一軒あたりの支出は大変なものだろう。金額だけで推しはかることはできないが,村の人たちから支持されてなかったら,これだけの人数と金額は集まらなかったであろう。保存会のAさんは,ハナが100万円を越えるようになったのは,この2,3年ですと言った。
横仙歌舞伎はすでに有名になってきているが,春日歌舞伎がこれほど活況を呈しているとは知らなかった。それも全国的な流れと深い関連があってのことと知って,感動は一層深いものとなった。横仙歌舞伎のTさん,春日歌舞伎のAさんたちは,景山先生や全国の歌舞伎保存会の人たちと連絡を取ったり,行ったり来たりしているとのことであった。
ま と め
「作州における農村歌舞伎について」は長年暖めてきたテーマであったが,範囲が広く,かつ問題点が多いため,取材が分散的で,大ざっぱな報告になったが,次回からはテーマをしぼって研究してゆきたい。
ここまでまとめて感じたことは,我国の歌舞伎があそこまで完成されるには,いかに多くの庶民が,その底辺を支えていたかということである。勝央町からひとりの劇作家を生みだしたのも,それだけの下地があったからであろう。
農村歌舞伎は,庶民自らが演じ参加することによって,花開いていった。それが映画,テレビなどの普及によって衰退していった。しかし,これら一方的に与えられるだけでは満足できない何かがあり,それが近年復活の原動力になっていっているのではないだろうか。今回は西作州については触れなかったが,西の方は浪花節がさかんで,節芝居といわれる。また備中神楽の影響もみられるが,地下芝居はさかんである。近年「まにわ演劇学校」(名誉校長・倉本聰)が設立され活況を呈しているようだが,核をなしているのが,地元の地下芝居の仲間だときく。いずれ西作州も調査したい。
作州の地下芝居も全国的なものと深い関連があることがわかったことは,大きな収穫であった。
註
| 1) | 劇作家「額田六福のこと」と題して,1991年5月23日〜6月17日まで21回 津山朝日新聞に連載。 |
| 2) | 『美作の歌舞伎芝居』(二宮朔山著 1976年10月 岡山文庫)序文 |
| 3) | 勤労青年劇脚本集『忠霊塔』(額田六福著 1942年12月 国民社)のはしがき |
| 4) | 岡山県重要無形文化財「横仙歌舞伎」(1980年3月 横仙歌舞伎保存会発行の小冊子)P5によると,この舞台を修理する時に,屋根瓦に文化年代と書いたものがあった。 |
| 5) | 前掲書2 P135 |
| 6) | 『愛すべき小屋』(景山正隆著 1990年9月 冬樹社)まえがきとP392 |
| 7) | 「勝央町の地芸」(町の教育委員会,文化財保護委員会でまとめた,手書きの小冊子) |
| 8) | 県重要無形文化財指定保持者で,横仙歌舞伎の名物男といわれた「高森源一」氏のことであろう。 |
| 9) | 播州の北条(兵庫県加西市)高室に俗に「役者村」と呼ばれる播州歌舞伎発祥の地があり,ドサ回り旅役者の元締で,作州の歌舞伎に影響を与えた。 |
| 10) | 出雲の阿国と歌舞伎の発生については,有吉佐和子著『出雲の阿国』(1972年5月 中央公論社 全三巻)に詳しく書かれている。小説であるが,有吉自ら調査のため来津し,名古屋山三郎(津山で横死)や横仙歌舞伎などが書かれ,作州に関係が深いが,間違いもある。が又別の機会に記すことにする。 |
| 11) | 前掲書2 P20 |
| 12) | 前掲書6 P66 |
| 13) | “おひねり”小銭を紙に包んでひねったもの |
| 14) | 『勝央町誌』(1984年11月 勝央町)P123
『奈義町誌』(1980年 3 月 奈義町)P68 新編『作東の歴史』(1979年12月 作東町の歴史事務局)P83 |
(1998年12月1日 受理)